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栄一と歳三

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[栄一と歳三]2021.11.1

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 NHK大河ドラマ「青天を衝け」は、渋沢栄一の半生を描いていますが、まだ明治時代に入ったばかりで、栄一が官庁勤めしているところで、私が興味を持っている多数の会社を栄一が設立していくというエピソードがなかなか始まらずやきもきしているところです。一方、司馬遼太郎原作の「燃えよ剣」が映画化され、幕末を描いた両作が非常に楽しみです。「燃えよ剣」は、新選組の副長であった土方歳三を主人公とする作品で、歳三が近藤勇の道場に入り、その後新選組として京都で活躍し、最後は函館戦争で戦死するまでを描いたものです。

 栄一と歳三は、表面的には全く相いれない人物像として描かれていますが(実際にも、両者が会ったことがあるとは史実ではなさそうです。)、実は意外と共通点があると思われます。まず、二人とも関東人ということです。歳三は、武蔵国多摩郡石田村(今は日野市)に生まれ、栄一は、武蔵国血洗島(今は深谷市)に生まれました。石田村は天領、血洗島は岡部藩ということで属する所の違いはあれども、江戸時代の関東地方というのは、将軍のおひざ元ということで、一つの関東人意識が形成されていたのではないかと思います。その意味では、栄一と歳三が話をしていたのであれば、同じ関東人同士打ち解けて天下国家について論することはできたのではないかと思います。

 それよりも、両者の共通点というのは、生家が割と裕福な家であり、栄一の実家は藍玉の製造販売を、歳三の生家は「石田散薬」という打ち身に効く薬を製造販売していたという、両者とも事業家の子供でした。藍玉の製造販売というのは、「青天を衝け」でも描かれていましたが、原料となる藍を発酵させて、藍玉という染め物の染料を作るというものですが、栄一の父親である市郎右衛門は、藍を自家栽培するだけでなく、周辺の農家からも藍を買い取り、それを藍玉に製造して、染物屋である紺屋に売り込むという製造販売の一貫体制を構築しておりました。また、歳三の実家で製造販売を行っていた「石田散薬」ですが、これも近くの浅川に生える草を原料として、乾燥したり、黒焼きにしたりして、最終的に呑み薬にして、それを行商などで売り歩くというこれも製造販売一貫体制を構築していたものでした。日本史の教科書で出てくる「家内制手工業から問屋制手工業」への転換過程であり、両者の実家とも相当数の労働者を使い、原料を仕入れて加工して、販売するということで、相当規模の事業を行っていたようです。若いころの栄一も、歳三も、実家の事業を見て、もしくは労働者の一人として働かされて、人を使って大きな事業を行うということを体で学んだのではないかと思います。1年のどの時期に誰から原料を仕入れるか、どの時期に誰に刈り取りをさせるか、どの時期に製造の仕込みをどのような人員体制で行うかを己の肌身で学んだものと思います。

 その経験が、栄一であれば、一橋家の用人となったときには経理業務を行うのに役立ち、明治になれば新しい事業をどんどんと展開していくにあたり役立ったものと言えましょう。また、歳三であれば、新選組を、副長という実質的な責任者(近藤勇は、総長と言っても実務を行ってはいませんでしたので)として、戦闘組織としての構築、運営、資金調達を自ら行ったというのも、実家での事業を手伝った経験があったならばこそと思います。そうでなければ、新選組という単なる人斬り集団であったのであれば歴史の中に埋没してしまったのではないでしょうか。新選組の歴史的価値には否定的な意見がありますが、没落していく徳川幕府を最後まで支える組織としての価値は評価されてしかるべきであり、その実質的トップであった歳三は、戦闘者ではなく組織構築者として評価されるべきでしょう。

 栄一は明治期を通じ活躍をして天寿を全うしたのですが、歳三がもし生き残っておれば明治期にも活躍をすることができたのではないかと思います。しかし、沢山の有志を歳三に切られた明治政府としては、歳三を生きて残しておくことはなかったでしょうし、何よりも函館戦争でおめおめと降伏して新政府に仕えるなんてことは、歳三の美学に反するものであったと思われますから、函館での戦死により自らの出処進退を結論付けたのだと思います。
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