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裁判員裁判制度の今後

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[裁判員裁判制度の今後]2012.6.1

 平成24年4月13日、さいたま地裁において被告人木嶋佳苗に、死刑判決が下された。100日もおよぶ裁判員裁判において、本人は犯罪事実を否認、直接証拠なしの裁判で、裁判人も精神的にも肉体的にも相当疲れたことと思う。

 裁判員裁判は、平成21年5月にスタートしたので、今年で早3年を経過することになる。裁判所の資料によると、何と3000人を超える被告人を裁いたこととなる。(話しが脱線するが、マスコミの報道では、何故「木嶋被告」というのだろうか。というのも、被告というのは民事裁判における当事者の呼称であり、刑事裁判では被告人というのであるから、「木嶋被告人」と呼ぶのが正しいのだが、その様に報道しないのはなぜか、理由を知りたいところである。)閑話休題。裁判所が、裁判員経験者に対するアンケート調査を行いその集計結果によると、興味深いのは、裁判員経験者のうち、裁判員に選ばれる前は、52.8%の人が“やりたくない””あまりやりたくない“と裁判員裁判参加にネガティブだったのが、裁判に参加した後は、“非常に良い経験と感じた。”“良い経験と感じた。”と実に95.5%の人がポジティブに回答している。これは何を意味しているのであろうか。

 そもそも、裁判員裁判を始めた趣旨は、日本の裁判というのは、司法試験合格後、司法研修を修了し、そのままストレートで裁判官になった人と、検察官になった人と、弁護士になった人たちで、すなわちいわゆるプロ同士で、(公開法廷であるから密室とは言わないにしても)傍聴人を意識することなく、難読の専門用語を振りかざし、証人尋問よりも警察や検察が取り調べた調書の方を重視しながら行ってきというものであり、果たして社会的正義を実現しているか怪しいということで、一般市民である国民の目を裁判に反映しようとして始められたものである。ところが、私も記憶にあるが、裁判員裁判が始まる直前まで、多くの市民の声は、「法律を全く知らない素人が、裁判なぞ出来るわけがない。」「死刑の判決に関与したくない。」「裁判はプロが行った方が正しい結果が出る。」などであった。極めてネガティブな発言ばかりだったが、それは、この調査の52.8%という数字に反映されているのであろう。「せいぜい、2−3年で終わってしまうのではないか。」という声さえあった。しかし、3年が経過しようとする現在、多少の制度修正は必要かもしれないが、裁判員裁判制度を廃止してしまえという声は聞こえてこない。95.5%の数字がそれを反映しているのであろう。

 なぜ、裁判員裁判を経験してみたら、やっぱりいい経験だったということになるのであろう。ひとつは、これは多少語弊があるかもしれないが、やはり裁判そのものに当事者として関与するというのは、他人に運命を左右する重大な手続だけに真剣ではなくてはならないが、“面白い”ということにあろう。法廷ドラマのように裁判が進行し、一般には報道されていないような生々しい事実に触れることができ、社会的体験としては中々普通の機会ではありえないものである。

 しかしながら、これは大分独断的飛躍的意見かもしれないが、裁判員制度を通じて、一般市民も国民としての自覚を持ったのではないか。「裁判はプロが行うもの」という意見は、多分に司法権の独立という憲法上の要請から出ていると考えられる。司法権の独立というのは、裁判という公平公正な立場で人を裁くには、多数決原理の支配する立法府や、官僚機構による画一的・効率的運営を図る行政府からの影響を受けずに、独立した裁判所、裁判官が自らの知見にのみで裁判をすることが必要であるというものである。確かに古くは、大津事件における児島惟謙の存在とか、長沼ナイキ訴訟における裁判干渉とか、司法権を守るための独立というものがクローズアップされたことがあったが、それでは全く誰からも干渉を受けずに裁判することがベストかというアンチ・テーゼが裁判員裁判だと思う。すなわち、司法権の独立といっても主権者は国民なのであるから、全くの聖域化は許されることではなく、ある程度の主権者としての司法権に対するコントロールが必要であり、起訴段階におけるそれが検察審査会であり、起訴後の裁判段階におけるそれが裁判員裁判であろう。そのあたり、裁判員を経験した人たちも具体的な概念として理解していなくても、裁判を通じて皮膚感覚でわかったのではないだろうか。裁判所のアンケート調査結果においても、「評議においては71.6%の裁判人が十分に議論ができた」と答えているのは、その裏付けにならないだろうか。もとより、裁判所のアンケート調査結果を穿って読むと、その様な十分の議論ができたベースには、「裁判所の対応(職員の応対・設備)については、74.6%の裁判員が適切であった」「審理の内容は、61.9%の裁判人が理解しやすかった」ということを強調したかったのであろうが。

 制度として見直しを考える点として言われるのは、裁判員裁判においては、犯罪があったかどうかの認定のみならず、量刑までを決めなくてはならないという点である。米国の陪審制度においては、陪審員は犯罪事実の認定までを評決し、量刑は裁判官が決めるということとなっている。確かに、今回の木嶋佳苗裁判でも、死刑判決を出すことに対する裁判人の心理的負担は計り知れないものがあると推察される。しかしながら、刑事裁判において量刑こそが“裁判の核”であり、その多寡が判決の正当性の判断の対象となる以上、避けて通れないものと考える。今後の議論により、どうなって行くのであろうか興味がある点である。