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永田鉄山という男

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[永田鉄山という男]2016.1.1

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 明けましておめでとうございます。本年も、月一度のコラムをさぼらずに頑張ってみたいと思います。

 さて、昨年も、安保法制に絡んで我が国のあり方について論じてきましたが、新年第一弾も歴史に学んでみようということで、偶々本屋で見つけた「永田鉄山 昭和陸軍『運命の男』」という新書に書かれていた、戦前の陸軍中将であった永田鉄山という男を通じて、我が国のあり方を考えてみました。永田鉄山は、明治17年、長野県に生まれ、陸軍中央幼年学校、陸軍士官学校、陸軍大学校をいずれも優秀な成績で卒業し、現場というよりは、陸軍中枢での官僚としてキャリアを積み、将来を嘱望されていましたが、昭和10年8月、陸軍省軍務局長時代に、何と局長室において、陸軍内皇道派の相沢三郎中佐に斬殺されたというのが簡単な個人史です。

 当時も陸軍省の軍務局長という、いわば陸軍行政における政策立案を担当する中枢機能ポストの現職少将(斬殺時は陸軍少将で、死後、中将に進級したものです。ちなみに、軍務局長ポストいうのは、政策立案を担当するということから、太平洋戦争開戦時の軍務局長であった武藤章は、戦後の東京裁判において、中将ポストにも拘らず絞首刑となったことからも、重要なポストであることがうかがわれます。)が、それも陸軍省内の軍務局長室で、日本刀で惨殺されるというショッキングなニュースは、世の人々の耳目を集めました。高校の日本史の教科書にも写真付の説明が載っていた記憶があります。単なる事実としては、当時、陸軍内での派閥争いをしていた統制派(永田は統制派の中心人物と目されていました。)と皇道派の権力争いに巻き込まれ、半ば狂人と化していた相沢中佐に暗殺されたというものなのですが(犯人の相沢中佐は、軍法会議で死刑)、当時においても、「永田の前に永田なし、永田の後に永田なし」「陸軍の至宝」などと言われて、彼の死亡により、国家の来し方行く末が影響をされるというほどの重大事だと言われていました。新書『永田鉄山 昭和陸軍「運命の男」』にも、「永田鉄山が生きていたら、太平洋戦争は回避できた?」という帯が付いており、永田の死後、統制派の中心となった東条英機が太平洋戦争を開戦しているので、なかなか興味のあるテーマです。

 では、果たして永田鉄山暗殺事件が無く、その後も永田が陸軍の中枢にいたとして、その後の歴史が変わったか、太平洋戦争が回避できたかについて、歴史にイフなしですがシミュレーションしてみたいと思います。まず、永田鉄山暗殺事件後の翌年昭和11年2月に、二・二六事件が暴発します。これは、皇道派の青年将校が、皇道派の幹部たち(真崎真三郎とか、荒木貞夫らと目される)に唆され、クーデターを起こした事件ですが、永田鉄山暗殺事件が無くとも、どのみち両派閥の抗争の果てに起こされていた事件であり、いわば山口組内の抗争と同じですから、起こるべくして起きたものと思われます。いくら、切れ者永田軍務局長でも、クーデター回避は難しかったものと思われます。しかしながら、問題は、この事件以降、暴力機構である陸軍に対して正論で諌止する者がいなくなり、軍の暴走が始まります。その翌年昭和12年に、盧溝橋事件をきっかけに泥沼の日中戦争に突入することとなります。よく、「永田鉄山であれば、現地部隊の暴走を止められた」ということが言われるのですが、私は甚だ疑問と感じます。なぜなら、永田は、満州事変開始時においても、本音としては関東軍の暴走を止めたかったのだが、結局は現状肯定をしてしまい、満州国の建国まで黙認をしてしまったという過去があり、所詮“官僚”としての保身が働いたのではないかと思われます。もし永田が盧溝橋事件開始時に軍中枢にいたとしても、結局は満州事変の時と同様に、現状肯定「やってしまったものはしょうがない」ということになったものと思われます。それでは、永田が生きていれば、太平洋戦争を回避できたでしょうか。確かに“小役人”的性格の東条英機が、大局観を持たずに開戦に至ったとよく言われることですが、では東条首相ではなく、永田首相であったら、開戦を回避できたでしょうか。これも、私は懐疑的です。永田は、欧州駐在時から、総力戦についての研究の第一人者であり、陸軍における総力戦体制構築の旗振り役でした。大正9年5月に作成された「国家総動員に関する意見」は、その後の国家総動員体制のバイブルとなるもので、同体制の推進役である企画院が創設され、戦争への道を作ったという“輝かしい“貢献があるのです。自らが道を開いた国家総動員体制を、自らがストップをかけたでしょうか。永田が生きていれば、自ら企画立案した国家総動員体制が機能するかどうかに賭けてみたのではないでしょうか。また、本人がやめたとなっても周りが許さなかったでしょう。

 結局、昭和期以降の歴史は、永田一人の死によりその来し方行く末を影響されるものではなかったものといえます。山本七平が、戦前も戦後も日本は「空気を読め」という得体のしれない、かつ責任がどこにあるかわからない“空気”というものに支配された国家(国家どころか、民間の会社でも同じでしょう)であり、ある一人が独自の正論を述べたところで、全体の空気を変えるということは非常に難しい、そのことが分かっている者ほど、うまく立ち回るということになるのであり、陸軍一の秀才であった永田鉄山であれ、細かいことにのみ目が行った東条英機であれ、結局は、太平洋戦争開戦は免れなかったといえるのではないでしょうか。
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