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山の辺の道旅行記

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[山の辺の道旅行記]2025.6.1

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 このゴールデン・ウイークに、奈良県の山の辺の道を歩いてきました。山の辺の道は、山に囲まれた奈良盆地の東側の山裾を縫うように走る、日本最古の道の一つとして知られています。ルートとしては、奈良市の平城山から天理市に至る北ルート、天理市から桜井市につながる南ルートがありますが、今回私は、南ルートをウオーキングしてみました。南ルートは、天理市から桜井市まで16キロの行程ですが、今回は、以前から訪れたいと思っていた纏向遺跡・箸墓古墳を見学するために、途中から山の辺の道の正式ルートを外れて、時間的に最終的には三輪神社をゴールとしました。

 まず前日は京都駅前のホテルに宿泊しましたので、朝、京都駅から近鉄電車に乗り、途中の平端駅で天理線に乗り換え、天理駅に到着しました。まずは、山の辺の道の南ルートの起点となる石上(いそのかみ)神宮を目指し、天理駅の駅前アーケード商店街(なんでも奈良県で最長のアーケード商店街とのことで、天理教本部のちょうど参道のような役割を果たしているようです。)を1キロほど歩きますと、山際に到達し、広い路を越えたところに石上神宮がありました。『日本書紀』に記された「神宮」は伊勢神宮と石上神宮だけであり、その記述によれば日本最古設立の神宮となるとのことです。石上神宮と言えば、何といっても国宝の七支刀が有名です。日本史の教科書にも必ず出てくる、また形に特徴的な刀ですが、金象嵌で記された銘文の中に「泰□四年」の年紀とあり、「泰和」と解釈して「太和4年(369年)」に比定する説があり、その頃の百済での作と推定されるほどの4世紀の貴重なものです。実物を見学ができるのかと思って、宝物殿を探したのですが見当たらず、残念ですが先を急ぐこともあり、参拝だけして次に向かいました。

 石上神宮から少し行ったところに、内山永久寺跡がありました。“跡”で何も残っていない単なる原っぱですので、山の辺の道をウオーキングする人たちはあまり興味がないようですが、日本史の廃仏毀釈の話では例としてよく出てくる寺の跡です。永久寺は、永久年間(1113年〜1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第2世院主の頼実が創建し、第3世尋範に引き継がれて堂宇の整備が進められました。天正13年(1585年)の時点で、56の坊・院が存在したほどの大寺となり、近世の『大和名所図会』所収の境内図によれば、池を中心とした浄土式回遊庭園の周囲に、本堂、観音堂、八角多宝塔、大日堂、方丈、鎮守社などのほか、多くの院家、子院が建ち並んでいたとのことで、大和国では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」ともよばれていたとのことです。“ところが”、明治時代となり、廃仏毀釈のあらしに巻き込まれ、詳細は割愛しますが、56もの坊・院があった寺が跡形もなく取り壊されてしまい、草っぱらになってしまったのです。いかに、“文化大革命”が恐ろしいものかというものが、よくわかります。

 内山永久寺跡を越えますと、山際を歩く道が続きます。南ルートからは、大和盆地がよく見渡せ、遠く生駒山などの産地も展望できました。南ルートの半分ほどを行ったところに、休憩施設・情報発信施設であるトレイルセンターがあり、無料のお茶サーバーもありましたので、ここで休憩をして次に向かいました。トレイルセンターから10分ほど歩くと、大きな古墳が見えてきました。「行燈山(あんどんやま)古墳」という名称ですが、第10代崇神天皇陵と治定されている墳墓です。『古事記』や『日本書紀』にその系譜が記されている初期天皇の系譜は、その多くが後世の創作によるものと見られ、神武天皇と欠史八代の天皇が実在した可能性は学術的にはほぼないとされています。(欠史八代(けっしはちだい)は、第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8代の天皇を指すものです。)となると、第10代の崇神天皇が、実質的にヤマト王権の初代の天皇と言えるのではないかという学説も出てきています。端的に言えば、神武天皇と崇神天皇が同一人物ではないかとも。というのも、神武天皇の別称「始馭天下之天皇」も、崇神天皇の別称「御肇國天皇」も、「はつくにしらすすめらみこと」と読め、“始めて国を統治した天皇”ということになるからです。実際の古墳は、墳丘長242メートルの前方後円墳で、近くによると相当の圧迫感を感じるほどの大きさでした。3世紀後半から4世紀前半の築造だとすると、相当の権力を有していたと思わされる古墳です。

 その行燈山古墳から数分のところに、「渋谷向山古墳」があります。墳丘長300メートルの前方後円墳で、景行天皇陵に治定されています。景行天皇とは、先述の崇神天皇の孫にあたり、有名な日本武尊と第13代成務天皇の父であり、第14代仲哀天皇の祖父になります。実在したとすれば、治世が4世紀前期から中期と想定される天皇です。景行天皇と日本武尊親子は、東日本・西日本に遠征し、ヤマト王権の全国統一事業を推し進めたとされています。祖父の崇神天皇陵よりも大きな古墳であり、崇神天皇の時代から、更に景行天皇の時代は、ヤマト王権の権力が大きなものになったのではと推認されるほどの大きな古墳です。二つの古墳を見て思ったのは、両古墳とも平地から少し標高が上がった山の中腹に作られているということで、百舌鳥古墳群や、後述する箸墓古墳など平野部に作られた古墳と比較して、何故にわざわざ工事が難しそうな丘陵部に作ったのだろうかという疑問がわいてきました。

 渋谷向山古墳を過ぎると、大神神社に向かっていくのですが、丘陵部を降りて平野部の方に向かうこととしました。山の辺の道本道からは外れますが、纏向遺跡・箸墓古墳をスルーするわけにはいきませんので。JR巻向駅の方に丘を降りていきました。降りたところの案内標識を見ますと景行天皇量のすぐそばに、相撲神社があったことに気が付きましたが、また坂を上っていこうという気力・体力がなく、今回はパスすることとしました。ちなみに相撲神社とは、「日本書紀」において、垂仁天皇の時代に出雲国出身の野見宿禰と大和国出身の當麻蹶速(当麻蹴速)とが垂仁天皇の前で取り組みをおこなったのが相撲のはじまりであり、両社の取り組みが行われたのが相撲神社の場所ということで、野見宿禰が祀られているということです。

 さて、平野部に降りてきますと一気に現代に戻り、自動車が疾走する道路やコンビニなど他の地方と変わりがない風景ですが、JR巻向駅に到着しますと、駅の西側に何やら柱が沢山復元されているのが見えてきます。いわゆる纏向遺跡というのは、JR巻向駅を中心とした広域一体に存在するものであり、柱が沢山見えてきたのは、掘立柱建物の遺構であり、その柱列を復元したものです。その中でも中心的な建物は、約19.2m×約12.4mの柱の列を見ただけでも大型の建物であることがわかり、ヤマト王権の中心部、すなわち“宮殿”ではなかったかと思われた次第です。纏向遺跡のエリア内には多くの古墳が存在しますが、その中でも飛びぬけて大きな古墳が箸墓古墳です。全長約280mの前方後円墳で、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓に治定(じじょう)されていますが、邪馬台国の卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀中頃から後半とする説があることから、卑弥呼の墓ではないかとうわさされている古墳です。先述した崇神天皇陵が242m、景行天皇陵が300mということからすれば、箸墓古墳は両天皇陵に匹敵するほどの大きさであり、天皇に匹敵するほどの権力者の墓であると言ってもおかしくないと思われます。倭迹迹日百襲姫命が、第7代孝霊天皇皇女で、大物主神(三輪山の神)との神婚譚で知られる巫女的な女性であることからも、卑弥呼は(中国人が倭人を貶めるために卑しい名前を付けたのであろうと推測され、)実際には“日の巫女(御子)−ヒミコ”ではなかったのではないでしょうか。箸墓古墳には、参拝客が散見されまして、よく箸墓古墳の存在が知られているのかなと思って大きな道に出る手前に、“卑弥呼の庭”という大きな駐車場付きのカフェがあり、なるほどここに引き寄せられてきたのかと感心した次第です。

 箸墓古墳から30分ほど国道を歩くと、纏向遺跡の資料などが展示されている桜井市立埋蔵文化財センターが見えてきましたが、夕刻近くとなっていましたので、残念ながら中に入らずに先に進むと大きな鳥居が見えてきました。大神神社(おおみわじんじゃ)の大鳥居でした。大神神社は、三輪山を神体とする日本最古の神社と言われ、それゆえに本殿をもたず、三輪山を直接拝することになっており、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)・中津磐座(なかついわくら)・辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座があり、岩そのものをいわば神体代わりとして信仰の対象としています。非常に大きな神社で、初詣の時などはすごい人出が想定されそうな大神社としての風格がありました。本殿がないと言っても、立派な拝殿があるので、あまり普通の神社と変わりなく違和感はありませんでした。参拝を済ませましたら、三輪素麺でも食べようかと思いましたが、店が開いておらず、残念ながらJR桜井線(今は、万葉まほろば線というらしいです。)三輪駅から天理駅に戻り、近鉄に乗り換え京都に戻りました。
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