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“奇跡の1ミリ”

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[“奇跡の1ミリ”]2023.1.1

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 サッカーワールドカップ・カタール大会において、日本チームはドイツ、スペインを破ってグループリーグを突破しましたが、決勝トーナメント1回戦でクロアチアに惜しくもPK戦で敗れてしまい、悲願のベスト8入りはまたもやお預けとなりました。しかし、今大会では何といってもドイツ、スペインを破るという快挙を演じ、その中でも三苫薫選手の“奇跡の1ミリ”が話題になりました。
 映像で見る限りでは、ボールがゴールラインを割っているように見えたのですが、VARという最新技術で判断すると、本当に1ミリかどうかはともかく首の皮一枚残ったということで、ボールがラインを割っていたら田中碧選手のゴールも無効となったわけで、そうするとスペインと引き分けとなったとすると得失点差の関係で日本はグループリーグを突破できなかったということになるわけで、まさに値千金のアシストだったと言えましょう。

 今回の三苫選手の“奇跡の1ミリ”も、勝ち上がりか敗退かというまさに天国と地獄の分けた一つの出来事ですが、歴史上でもこれがなければ歴史が変わっていたという出来事があります。まず、織田信長の桶狭間の戦いがその例に挙げられましょう。永禄3年5月19日、駿河国の大名の今川義元は、2万5000人の兵を率いて京都を目指し進軍を続け、尾張国桶狭間まで到達したところで昼食のための休憩を取るために全軍の進行を停止させたところ、急に豪雨が降り始めたのをきっかけに織田軍の騎兵部隊が今川軍本軍に攻め込み、大将の今川義元の首を打ち取ったという事件です。この桶狭間の戦いも奇跡と言われますが、“1ミリ”に値するのは、今川軍が桶狭間というまさに“狭間”という狭い地溝帯で進軍を停止したために軍列が伸び切ってしまい横からの攻撃に弱い状態を今川自ら作り出してしまったことに加え、今川軍からの索敵をかわして今川本陣まで近づけた織田軍が、突然の豪雨が降りだしたことにより織田軍の襲撃がカモフラージュされたことではないでしょうか。この突然の豪雨がなければ、早い段階で織田軍の襲撃を今川軍が察知し、少なくとも総大将の今川義元を桶狭間から外に開放してしまった可能性が高いと思われます。今川義元が逃げてしまえば、織田信長は孤立無援で戦死していた可能性が高いでしょう。そうなると、その後の日本の歴史は大きく変わったことと言えます。

 また、1600年9月15日の関ケ原の戦いにおける徳川家康も、奇跡の1ミリを体験した一人と言えます。同日の徳川家康率いる東軍は約74,000人、石田三成率いる西軍は80,000人と人数的には西軍の方が有利でした。徳川家康としては、数的優位を得るために、家康本軍の他に三男の徳川秀忠に38,000人の兵力を与え、中山道ルートで関ケ原に到着するように指揮したものの、途中の上田城で真田昌幸親子にしなくてもいい戦いを仕掛けられ、真田親子の時間稼ぎ工作に巻き込まれ、結局関ケ原に遅参することとなりました。徳川秀忠軍が戦闘に参加しておれば、112,000人対80,000人と圧倒的数的優位に立てることができたのですが、9月15日の朝の家康としては、秀忠軍のいない勝利を確信できないままに戦闘開始に臨むこととなりました。家康が数的不利にも拘らず戦闘に踏み切ったのは、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返ることを約束させておいたためです。小早川軍は15,000人の兵力を引き連れていましたので、これが西軍から東軍に寝返ると東軍89,000人、西軍65,000人と東軍の数的優位となり、東軍勝利につながるというものです。ところが戦闘が進展してもなかなか小早川軍は西軍に寝返りをしません。そのうちにどんどん西軍有利の戦況が進んでいきます。家康から早く寝返るようにとの使者を小早川秀秋に送りますが、少しも動こうとしません。そこで、家康が打った手は、何と小早川軍に向け鉄砲を連射したのです。これに驚いて小早川軍が東軍に寝返り、西軍は総崩れとなり東軍の圧勝ということになりましたが、小早川軍が西軍として先頭に最終的に参加しなかったとしても、戦況からは西軍に勝ち目があったようですから、家康の発砲は一か八かの“奇跡の一ミリ”と言えるのではないでしょうか。もし、東軍が負けていれば当然徳川家はおとりつぶし、家康自身の命の保証もありません。もちろん、江戸幕府を開くことなどできなくなったわけで、この奇跡の一ミリも日本の歴史を大きく変えた可能性があると言えます。

 もうひとつ、日露戦争における黒溝台の戦いも“奇跡の一ミリ”と言えましょう。1904年に開戦した日露戦争は、満州において鴨緑江会戦、金州南山の戦い、遼陽会戦、沙河会戦を経て日本軍、ロシア軍とも膠着状態に陥っていました。戦況を打開するためにロシア軍は、奉天西方の黒溝台で決戦を仕掛けることを企図しました。それに応戦するために日本軍も黒溝台に布陣をしたのですが、日本軍54,000人に対し、ロシア軍96,000人と圧倒的に不利な兵力差は如何ともしがたく、黒溝台西方に布陣した秋山好古少将率いる秋山支隊は明らかに“薄い”陣であり防御力が弱いことは敵から見ても明らかでした。そこで、ロシア軍は兵力を秋山支隊に集中して、猛烈に攻撃してきました。秋山少将はまともに戦っては勝てるわけがないということで、騎兵部隊であった秋山支隊は馬から降りて塹壕を掘り、塹壕の中で当時も多くはなかった機関銃を配備して、徹底的にロシア軍に対して交戦しました。とにかく、機関銃が真っ赤になるまで打ち続けたと言います。それでもなんとか、ロシア軍の攻撃を防ぎきることができました。秋山支隊が突破されていたら、日本軍は全面的に戦線が壊滅し、敗北することとなったと言われています。ということは、日本が日露戦争に負け、北海道あたりがロシアに割譲されていたことも想像に難くありません。黒溝台の戦いでの秋山支隊の奮闘が日本軍にとって“奇跡の一ミリ”となったと言えると思います。日露戦争は、この黒溝台での秋山好古少将、日本海海戦での秋山真之中佐の活躍でかろうじて勝ったと言えると思います。

 以上挙げました様に、特に戦争においては局地戦でのちょっとしたことで全体の勝ち負けまで左右するということがあり、勝負の女神の気まぐれでどちらかに転ぶかわからず、まさにそれを“時の運”というのでしょうか。
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