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ウクライナと長岡藩

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[ウクライナと長岡藩]2022.11.1

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 今年の夏に、新潟県の長岡市を訪問しました。新幹線で行けば東京から1時間ちょっとで行けますので、意外と近いという感じでした。歴史ファンの私としては地方都市を訪問した際には、まずお城を訪問することとしていますので、長岡駅の観光案内所に行って「長岡城を訪問したいのですが?」と尋ねたところ、案内所の女性に「長岡城に行くのですか?」と驚かれました。そんなに驚くことかと思いよくよく聞いてみると、何と長岡駅が昔の長岡城の跡だというのです。案内所の女性もどうしてお城の跡に駅ができたかという歴史までは知らなかったようですが、多分、戊辰戦争時に長岡藩が朝廷側に反抗して徹底的に戦ったために、長岡藩が朝敵として干され、明治期に鉄道を引くというときに見せしめのために長岡城の跡に長岡駅を作らせたということではないでしょうか。

 確かに長岡の街を歩いてみますと、戊辰戦争の時に町が焼けたことに加え、太平洋戦争の際に長岡大空襲で丸焼けになったために、街に古いものが何も残ってないという感じを受けました。その長岡の町探訪の中で、河井継之助記念館と山本五十六記念館を訪問しました。長岡出身の有名人というと河井継之助と山本五十六ということになりますが、私から見ますとこの二人はよく似ていると感じます。河井継之助というと、戊辰戦争時、長岡藩の家老格だったのですが、河井継之助は長岡藩を朝廷側にも旧幕府側にもつかず、武装中立を貫こうと決意し、同藩の江戸藩邸を処分して家宝などを全て売却した金で、武器商人からアームストロング砲、ガトリング砲などの最新兵器を購入しました。特にガトリング砲は当時の日本には3門しか存在せずそのうち2門を長岡藩が所持したことになります。鳥羽伏見の戦い後、新政府軍が陸奥会津藩征討のため長岡にほど近い小千谷まで迫って来ました。新政府軍監だった土佐藩の岩村精一郎は長岡藩の継之助と小千谷の慈眼寺において会談したのですが、会談において継之助は新政府軍を批判し、長岡領内への進入と戦闘の拒否を通告しましたので、新政府軍は長岡藩に戦闘を開始し(北越戦争と言われます。)、戦争の経緯は、司馬遼太郎の「峠」に詳しいので割愛しますが、当初は最新鋭の兵器を持つ長岡藩が有利だったところ、徐々に新政府軍が優勢となり長岡城が奪われてしまい、一旦は長岡藩軍が長岡城を奪還するのですが、最終的に新政府軍に敗北してしまいます。河井継之助も戦いの中で負傷した傷が元で死んでしまいます。長岡藩がどうして北越戦争を開始したかには色々と説がありますが、新政府軍の岩村精一郎の態度が悪かったことに河井継之助が憤慨してということが言われています。
 私が河井継之助に対する評価が低いのは、幾ら新政府軍の成り上がり大将の態度に腹が立ったとしても、新政府軍と長岡藩の戦力を冷静に判断すれば、戦争となった場合は相当の被害(実際に長岡の町を焼いてしまったのですが)が生じることはわかったはずですが、結局は冷静さを失って戦争に踏み切ったというところです。

 同じことが、山本五十六にも言えるのではないかと思います。昭和16年の時点で、冷静に考えれば大日本帝国がアメリカに戦争を仕掛けても最終的に勝てるわけがないことがわかっていたはずです。それを、山本五十六は「1年や2年は存分に暴れて見せます。」と言って、真珠湾襲撃を決行してアメリカとの全面戦争に突入してしまい、結局は原爆を2発も落とされ、日本を焦土と化して敗戦に至ってしまいました。山本五十六は、ブーゲンビルで撃墜されて戦死してしまいましたが何百万人の国民の命も失われました。昭和16年の時点で、アメリカに頭を下げてでもアメリカとの戦争を回避することはできたと思います。結局、河井継之助も山本五十六も破滅型の人間だったのではないでしょうか。

 翻って、現代の話になりますと、ウクライナのゼレンスキー大統領も、河井継之助・山本五十六と同じ匂いがします。もちろん、軍事侵攻してきたロシアが悪いのは当たり前ですが、ゼレンスキーの側にもプーチンの取り扱いに問題がなかったでしょうか。ウクライナとしてEUやNATOに加盟したいというのであれば、それなりに旧宗主国であるロシアに十分な根回しをしておく必要があったのではないでしょうか。プーチンという人間を十分に冷静に観察していれば、ロシアと手切れをしてしまうと本当の軍事侵攻してくることはわかったはずです。また、側近もゼレンスキーにそのことをよく説明しておくべきだったのではないでしょうか。いくら正義の戦いと言っても、ウクライナの東部南部をロシアに占領され、多くの戦死者を出して未だに停戦合意にまで至っていません。ゼレンスキーはどこに落としどころを見ているのかわかりませんが、プーチンが納得するような落としどころはなかなかないのではないでしょうか。やはり、自分のプライドを曲げてでもロシアとの関係を壊すことなく、自分たちの国益を達成するということが必要だったと思います。ゼレンスキーも破滅型の指導者ということで、長岡の二人と似ていると思います。
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